Facebookをやってる人なら誰でも知っている事だけど、Facebookってご丁寧に1年前の今日はこんなでしたとか、3年前、はたまた五年前くらいまでさかのぼって知らせてくれる。
・・・てな事で、ふと昔に書いたブログなんかを読み返す事になったりする事しばしば。
そんな中、昔、高麗茶碗について書いたブログがありそれをきっかけに今一度、高麗茶碗の本を読んでみました。
昔・・・某陶芸雑誌が高麗茶碗の特集をやっていて、それこそで一言一句漏らさず、全て読んだんだけどね。
高麗茶碗の歴史、そして現代作家が作る高麗茶碗。
きっとそれぞれすごい作品であるに違いない。
しかし・・・その良さが私のアホの頭ではわかんないワケよ。
30年もの長きに渡り陶芸をやってきたにも関わらずわかった事は・・・
高麗茶碗の奥の深さが「わからない」という事。
美術評論家が何回も何回も、高麗茶碗の見所は「無作為」の美であるという。
それもよくわからない事に拍車をかける。
そもそも、茶碗を作っているのだから、少なくても茶碗を作るという「作為」は存在するだろうよ。
もし、作為がなく作ったと100歩譲ったとしても作為がないのなら、それ適当に作った事にならんか?
「いやいや、心頭滅却して何も考えずに伸びやかに作るんじゃよ」
って言われたとしたら「心頭滅却して伸びやかに作る」という作為が存在してしまうんじゃね?!
作為が見えないようにしようという「作為」の存在が私には見える。
少数意見を尊重しようと言う多数意見。
貼り紙禁止という貼り紙。
作為を消そうとする作為。
昔、岡本太郎が子供の絵は作為がなく素晴らしいと言っていたが、まさか高麗茶碗を子供が作ったワケでもなく、必ず作為はあったと思う。
そもそも茶碗の形してるし、高台までついてるし・・・
「はいはい、くどくどとつまらぬ事を書いてんじゃね〜よ!・・・お前は高麗茶碗の何たるかを全然わかっていない」と言われるね!
先ほどから述べさせていただいているように・・・はい。わかっていません。
もう、1000パーセントわかっていません。
昔の高麗茶碗を手本にして、それに近づきたいって気持ちはわからないでもないけど・・・
近づきたいって・・・そもそも作為じゃね!???
だから・・もっと遠くへ!もっと遠くへ!離れていくべきだと・・・
わかっていない私は、わかってないからそう思う。
わかってなくて・・ごめんよ!
わかってあげられなくて・・ごめんよ!
わからなくたって、仕方ないよ!
だって・・人間だもの! by みつを
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